「本当に、いいのかい?」
自分を見つめながら、何度も彼はそう繰り返した。この先少しでも後悔する可能性があるならばやめておけと、その目でもって告げている。この先に待ち受ける運命は、それ程までに過酷なものなのだろう。自分にとっても、彼にとっても。
世界に終焉を告げる黒の鳥。
世界に終焉をもたらす玄冬。
どちらも不吉の象徴のような存在。ずっと一緒に暮らしてきた。この世界が雪に覆われる前まで、たぶん幸せに。そんな二人が今、共にこの真っ白な世界から去ろうとしている。
「ああ…俺の気持ちは変わらない。この世界から消えることで花白が苦しまなくなれるのなら、それでいいんだ」
白い世界。何もかも真っ白な雪に覆われた、綺麗で…そして人々が忌み嫌う残酷な世界。
彼らが望むのは春告げ鳥。この白い雪を溶かして、色彩豊かで暖かな春の到来を願う。その実現の為には、自分は存在していてはいけない。この世界の存続を願うならばと、誰もから死を請われてきた存在なのだから。
それは人が人を殺す世界に嘆いた神が掛けた、たった一つの戒め。
争いが続き、人が人を殺し続けると生まれる玄冬は世界を終焉へと導く。そしてその対抗策として作られた、世界でたったひとりだけ玄冬を殺すことの出来る救世主。だが、神の願いに反して人々は救世主に縋るばかりで、結局争いは消えなかった。繰り返されるこの世界に、神は嘆き、そして去っていった。
取り残された世界は、たとえ神が不在だとしても繰り返し繰り返し輪を巡らせてゆく。
幾度目かの滅びの予兆。再び生まれた玄冬と救世主。決して相容れぬはずの二人。
けれども、救世主は運命に従うことを拒んだ。殺したくないと、共に生きたいと、彼はそう言ってくれた。だその言葉けで十分だった。
だからせめて。
彼の生きるこの世界を救いたかった。そして、運命の鎖に繋がれた彼を解き放ちたかった。
「玄冬」
この箱庭の外へと向かう準備が出来たと、黒鷹が告げる。
「どうか幸せに…」
何も告げずに行くけれど、許して欲しい。共に生きることは叶わないけれど、箱庭の外でこの世界をずっと見守るから。
白い世界。この風の冷たさも雪の感触も彼との思い出もなにもかも。
この世界をきっと忘れはしない。
-*-*-*-
「あーあ。ほんっとに嫌になるね。人同士殺し合うために世界は存在してるんじゃないのに。こんな汚れた世界なら、いっそなくなってしまえばいいんだ」
忌々しげに呟いて、空を見上げた。灰色の空からは絶えず真っ白な雪が降り注いでくる。
こんなにも綺麗なものが、忌み嫌われる世界。冬にしか降る事のない、本来ならばそこまで害のないものがここまで嫌われる理由を作ったのは愚かな人間たち。悪いのは全て彼らなのに、どうして
一つの命を代償にしてしか存続出来ない世界なんて、そんなもの自分は要らない。
「そんなに争いあって死にたいのなら、お望み通り殺してやるよ」
雪をかき分けて歩き出す。サクサクと音を立てながら、真っ新な雪に足跡が刻まれる。
戦争が起こっているという国境沿いへ向かって、花白は一心に歩を進めた。
異変に気付いたのは戦地へと出発して暫くしてからの事だった。
「…っ!?」
もう何ヶ月も降り続いていた雪がピタリと止んだ。それだけではない。この世界のすべてを深く覆っていた雪が溶け始め、春の気配が近づいてくるのをはっきりと感じた。同時に己の力が消えていく兆しもわかった。
「どうして…」
玄冬を殺してはいない。それが唯一可能である自分は何もしていない。だから雪解けを迎え、春が訪れるはずなんて無いのに。
「玄冬…玄冬っ!」
叫んでも届かないのは分かっている。けれどもとても嫌な予感がして、どうにかなりそうだった。
嫌だ嫌だ嫌だ。
「嫌だ…!」
どうかこの雪を溶かさないで。彼が確かに存在するという痕跡を消さないで。
そう、幾ら願ったとしても。白い結晶は触れた指の先から次々と水に変わっていく。絶望感が押し寄せてくるのを止められず、もはや立っていることすら出来なかった。
近くでサク、と雪が踏み分けられる音がした。
「奴ならもう居らぬ。既に箱庭の外へ出てしまった」
座り込んでしまった花白のすぐ横の林から不意に一人の男が現れ、目の前に立った。
「あんた、誰だ?」
気配も悟らせずに近づいてきたその男に、警戒心露わに問いかける。
「欠けた白の鳥の代わりに補われたもの。…今となっては、この世界の唯一の管理者となるな」
「だったら…。あんたならわかるのか?玄冬が何処に行ったのか!」
藁にも縋る想いで問いかける花白を見つめ、眠たそうな声で彼は答える。
「箱庭の外へ出た」
「なに、ソレ」
「この世界は、玄冬と救世主のシステムを中心に動いている。滅びを迎えようとするのも、そのシステムが故」
己にしか通じないような言い方をする男に、次第にいらついてくる。分かり易い言葉で言って貰わなければ、自分にはわかりはしない。
「そんなこと解っている!玄冬は―――っ!」
だが彼は、花白の剣幕にもびくともせず自分のペースで話し続けていく。
「では、滅びをもたらす玄冬がこの世界からいなくなれば、どうなると思う?」
「まさか…」
「黒の鳥に連れられて奴はこの世界の外へと出た。木も花も雪も人も、何もない空間へ」
共に外へ出た黒鷹以外の話し相手はいない何もない暗い世界で生きていく。昔のように植物や動物を育てることも出来ず、出来ることと言えばこの世界を見守ることのみ。
「こちらから外は見えない。だが、外から中の様子を見ることは出来る。己の生きてきた世界を見守りながら、この先死ぬことも出来ず生き続けるという道を、奴は選んだのだ」
「そんな…っ」
身近な人が全て亡くなったとしても、玄冬だけは永劫に生き続ける。世界のために生まれては死ななければならなかった玄冬の運命よりも、もっと過酷な運命へと身を投じた彼の決意は如何ほどのものだったろう。
「なんでっ!そんなこと望んじゃいないのに!なんで玄冬ばかりがいつも苦しまなきゃいけないんだ!…なんで…」
眦から涙がこぼれ落ちた。
声無く泣き崩れる花白を見下ろし、それから男は踵を返して歩き出した。
「奴の行為を無駄にしたくなければ、生きることだ」
一言だけ告げると、そのまま林の奥へと消えた。
声枯れるほど泣いたとしても届かない。
一緒に居られるだけで良かった。ただそれだけを望んでいたのに。
もうここに君はいない。
君の代わりに訪れる春。
やがてこの白い世界に、色とりどりの花が咲く。