「そうだ ケテルブルク、行こう」
ガタン、と椅子が倒れる大きな音。
それと当時に、どこかのキャッチコピーのような言葉を口にして立ち上がるルーク。そのまま扉へと向かって走り出そうとしたルークの服の裾を、アッシュは素早く掴んだ。ルークのこの腹出しの服はどうかと思うが、こういう時に限ってのみ便利だ。
当然ながら、バランスを崩したルークは、アッシュの目の前で盛大にこけた。
「ってぇ!」
起きあがったルークが、鼻の頭をさすりながら振り返る。思い切り顔面から床へとつっこんだ為に強打したらしい。目尻に涙を浮かべながらじとりと見つめてくるルークに、流石に多少の良心は痛むアッシュだったが、ここで見逃すわけにはいかなかった。
「自業自得だ。それより、テメェは一体何をしようとしてたんだ?」
ケテルブルクという地名が聞こえたのは、決して気のせいではないはずだ。
「何って、ちょっと休憩に行こうとしただけじゃねぇか。アッシュのケチ」
「ほう。ケテルブルクに行くことが、休憩と呼べるレベルだと本気で思ってるなら、相当の屑だな。それに、この状況でそんな事が言えるとはな」
そう言って、執務机の上を指差す。隣同士に並んだアッシュとルークの机の上には、山のように書類が積み上げられている。とてもじゃないが、一日二日で終わらせられる量ではない。
「うぅ……だって疲れたんだよ。休憩くらい取らなきゃやってられねーし、第一効率だってわるくなるっつーの」
少しは悪いと思っているのか、ルークの声が段々と小さくなっていく。
確かにルークの言う事にも一理ある。適度な休憩は仕事の効率を上げる。だが、ルークの主張は許可できない。
「休憩を取るなとは言っていない。だが、それはこの屋敷内に限っての事だ。ケテルブルクに行くとかいう巫山戯た意見は却下だ。大体何故ケテルブルクなんだ」
ケテルブルクといえば雪の街だ。だが、今の季節は雪は降っていないだろう。この暑さを思えば避暑にはなるかもしれないが、涼しさだけならば空調の効いた屋敷内でも快適だ。
「……これだよ」
アッシュの問いに、ルークは一言呟いて封筒を差し出した。
受け取って中身をみれば、それはマルクト皇帝からの手紙とスパのチケットだった。宛先はルークのみとなっているが、チケットの数は二枚ある。どうやら一応こちらへも配慮してくれたようだが、思い通りになるのは少々癪な気もする。それに、あの皇帝はどこか苦手だ。
「ピオニー陛下からスパのチケット貰ったんだよ。今の季節は色々なプールをやってるから、アッシュも誘って二人で遊びに来いってさ。チケットも用意して貰ったんだし、折角の厚意を断るのも悪いだろ?」
ケテルブルクの会員制スパ。話には聞いたことはあるが、実際に行った事はない。あの頃はそんな余裕はなかった。気にならないと言えば嘘にはなるが……。
「駄目だ」
今は仕事が優先だ。緊急のものばかりではないが、後の事を考えると急いで終わらせてしまった方が良い。仕事はこればかりではないのだから。
だが、ここ暫く屋敷でずっと書類と睨み合っているから、そろそろルークは限界だろう。見た目はあれでも、中身はまだまだ遊びたい盛りの子供だ。
「今はまだ駄目だ」
しょんぼりと落ち込むルークの頭に手を置いて、柔らかな赤毛を撫でる。ルークに甘い事を重々承知しながら、それでも見捨てられないのだから仕方ない。
「え?」
「今はまだ仕事があるから駄目だと言ったんだ。仕事が終わったら父上に休暇を申請してみて、許可が取れればスパでも何でも付き合ってやる」
「っ! アッシュ!」
感極まって突撃してくるルークを軽くかわし、アッシュは扉へと向かった。
「ってて……あれ? 何処行くんだ、アッシュ?」
仕事へ戻らないのを訝しげに思ったルークが問いかける。再び床と対面したらしく、目尻に涙を浮かべている。おそらく同じ所をぶつけでもしたのだろう。
「少しだけ休憩だ。母上でもお誘いして、中庭でお茶にでもしよう」
「よっしゃ!」
ルークの表情があっという間に喜びに染まっていく。目はキラキラと輝いて、楽しみで待ちきれないのかうずうずしている様子が見て取れる。まるで犬のようだ。しっぽがあったら確実にパタパタと大きく揺れている事だろう。
「じゃあ、俺が母上を呼んでくるなっ!」
言うやいなや、ルークは部屋の外へと飛び出していった。あっという間に姿が見えなくなる。
「となると、こちらはお茶の支度だな」
適材適所。確かに自分の方がこちらに向いている。
中庭で待つ人達の為に、メイドを呼びつけて指示を出して、彼らのもとへ向かうとしようか。
心持ち少し早足に、アッシュは部屋を後にした。