左手にはティーセット、右手には焼きたてのアップルパイ。
落とさないように気を付けながら、それでいて急ぎ足でルークは目的地へと向かう。
その足取りは軽く。
目指すは大切な人の居る場所へ。
「アッシュー!」
ノックもせず、ゆえに部屋の主の許可を得ることもなく、ルークは目の前の扉を開けて中へと踏み込んだ。扉を開ける際に少々無理をした為か、かなりの大音量を立てて開いたドアを一瞥したアッシュが不機嫌そうな顔でルークを見る。
その手元にあるのは書類の束とペン。つい先程まで公務を行っていたのが見て取れる。
「もっと静かに入って来いと、何度言ったら分かる?それにきちんとノックをしろ、ノックを」
「だって両手塞がってたし」
ドアの前でその事に気付いたのだから仕方がない。
右手に持っていたアップルパイの皿を一時的に左腕の上に置いてから、ドアノブを回して手前に軽く引いた。次いでバランスの崩れぬうちにパイを右手に持ち直す。そして少しだけ開いたドアの隙間に差し入れていた足に力を入れたら、加減を間違えてしまったらしく盛大な音が出たいう次第だ。
だが、扉がきちんと開いたのでルークにとっては何も問題はなかった。
「はぁ…」
髪を掻き上げながら、アッシュは盛大にため息をついた。綺麗にセットされた前髪が指の間から幾筋か降りてきて顔を覆う。
「それよりアッシュ、休憩しようぜ。今日凄くいい天気だし、中庭のテラスで一緒に!」
にこにこと、満面の笑みを浮かべてそう言うルーク。
屋敷の中で大声で叫ぶなとか、足で扉を開けるな行儀が悪い、とか言いたいことはまだまだある。だがなんだかんだで己の半身の、この笑顔に弱いという事を自覚してしまってからは諦めた。敵うわけがない。
だから今日も楽しそうに嬉しそうに中庭へと向かおうとするルークの後を追う。そして相変わらず両手が塞がったままバランスの悪い状態で歩くルークの手から、ティーセットを奪い取った。
きょとんとした表情が、一瞬後また笑顔へと変わる。
「ありがと、アッシュ!」
「落とされでもしたら大変だからな」
「へへ、それでも嬉しい」
照れ隠しにとっさに顔を背けたが、きっとバレバレだ。
「んー、いい天気っ。空も真っ青だし」
空を見上げて陽の光を浴びて。そうしてルークは眩しそうに目を細めた。
「ルーク」
二つのティーカップに紅茶を注ぎ終えて、名を呼んだ。
それを聞いたルークが嬉しそうにテーブルへと駆け寄り、アッシュの真正面の椅子へと腰掛ける。砂糖とミルクを添えてカップを差し出すと、それを嬉しそうにルークが受け取った。
「今日はアップルパイなんだ」
焼きたてのパイにナイフを入れるとサクリと音がした。香ばしい匂いと甘いリンゴの香。見た目は多少崩れてはいるがとても美味しそうだった。
「この間ダアトに行った時にアニスに教わったんだ。今日は一人で作ったから、ちょっと見た目悪いんだけどさ」
紅茶にミルクと砂糖を入れてずっと掻き回しながらそう言う。切り分けたパイをまず先にとルークに手渡すも、彼の手はまた再び紅茶へと戻ってしまった。
そんな仕草から、己に何が求められているのか直ぐに分かった。口に出して言ってくれればいいのに、と思わずにはいられない。けれど素直に言い出せない気持ちもよく分かる。少し前まで己も同じだったのだから。いや、今もと言うべきだろうか。
口元に苦笑ともとれるような笑みを刷いて。
アッシュは切り分けられたパイを一切れ小皿に移して己の目の前へと置いた。そしてそれをフォークで一口分の大きさに切り、その一欠片を口へと運んだ。
甘酸っぱいリンゴの味がした。
「……美味いな」
甘さの加減がしてあるのか丁度良い、好みの味。ルークの気遣いだろう。
「ホントに?」
「ああ」
聞き返してくるルークに微笑む。途端真っ赤に顔を染めた彼を、とても可愛いと思う。
誤魔化すように自分の皿のパイをつつき始めたルークが、同じく一欠片を口に入れて。
「ホントだ、美味いな」
そう一言呟いて、幸せそうに笑った。
ある晴れた日の午後。
二人の頭上には青い空が何処までも広がっていた。