ゆっくりと意識が浮上していく。
少し冷たい風が頬を擽る感触や、噎せ返るような花の香。
瞼を開けば、頭上に広がる闇の中に輝く月と満天の星が見えた。
「……っ」
意識が戻ったアッシュは、まず身体を起こして自分の状態を確認した。手足は問題なく動くし、ざっと見た限り何処にも怪我は無い。最悪近くの街まで譜術と体術でしのごうと思っていたが、幸いな事に武器も共に持って来れたようだ。
少し離れた場所に転がっていた剣を腰の鞘に戻すと、改めてぐるりと辺りを見渡した。
そして探していた姿を視界に捉えると、近寄ってその傍らにしゃがみ込む。
「おい、起きろ」
肩に手を置き、軽く揺さぶりながら声を掛ける。
流石に気を失った少女を魔物の棲まうこの場所にこのまま放置しておけるほど冷たい人間ではない。ましてや彼女の力を利用して此処まで来たのだ。声を掛けたのは協力してくれた礼、という所だろうか。
「ん……っ」
ゆっくりと少女が目を開く。
まだ完全に覚醒していないその瞳と視線が咬み合った次の瞬間、目の前に素早くナイフが突き付けられた。
「流石、神託の盾の一員だ」
「……あ」
普段人目に付かない場所に隠されているナイフを素早く抜いた少女
―――
ティアは目の前の相手に思い当たると一言謝って刃を遠ざけた。
危うく攻撃されかけた事に対して、アッシュは別段気にしてはいなかった。寧ろ先程の反応が軍人として当然のものだ。ヴァンに特別に甘やかされていたものの、リグレットの教育は確かだったのだろう。
―――
それでも、自分とは比べようにない程にその手は綺麗なままであるけれど。
「此処はタタル渓谷。俺達は疑似超振動によってここまで飛ばされて来たんだ」
本来ならば自分でなく、ルークが彼女と一緒に飛ばされる筈だった場所。知っている過去と多少のズレが生じている現状でも、この場所までは変わらなくて助かった。恐らくはこれでこれから何処へ向かい、そこで何が起こるのか、おおよその目処が立つ。何かの役に立つかもしれないと、ローレライから与えられたかつてのルークの記憶によって。
「けれども、今回の件に対して俺から責めるつもりは一切無い。これから教団に戻ろうが、再びヴァンの所に行こうが好きにすればいい」
それだけ伝えると、アッシュは踵を返した。そのまま渓谷の入り口へ向けて歩き出す。
その去りゆくその背中に向けて、ティアが叫ぶ。
「待って! 今回の件はすべて私の責任よ。だから、私が貴方を無事にお屋敷まで送り届けるわ」
「俺は、あの屋敷に戻るつもりなど無い。戻りたくも無い。それでもおまえは
――― 」
足を止めて振り返る。
一対の翡翠の瞳が、真っ直ぐにティアの瞳を捉えた。
「 ―――
ただ死を待つだけのあの鳥籠に、戻れというのか?」
ガタゴトと馬車が揺れる。
値段の割にあまり快適とは言えない乗り心地ではあるが、それでも徒歩よりは随分と早くて楽ではあるので贅沢は言えなかった。
タタル渓谷の出口に辿り着いた二人は、そこで出会った馭者に二人分の代金を払い乗せて貰う事になった。エンゲーブまでとアッシュが馭者に行き先を告げると、ティアは何か言いたそうな様子を見せたが結局は口を紡いでしまった。先程のアッシュの言葉に言い返せないのがひとつ目の理由。そしてもうひとつ、馬車の賃金を自分では払えなかった為に何か口出し出来る立場ではないと弁えていたのだろう。
それからずっと会話の無いまま、二人は馬車に揺られている。
ふと、何かが聞こえたような気がしてアッシュは顔を上げた。窓から少し身を乗り出して馬車の進行方向の先を確認すると、大きな橋が見えた。
これから落とされる筈の、ローテルロー橋。
もうすぐだ、とアッシュの口端に笑みが浮かぶ。
あと少しで橋を渡りきろうという時、前方からドォンという轟音が鳴り響き、それからもの凄い勢いで走ってくる馬車とすれ違った。直後にその馬車を攻撃しながら追いかける巨大な軍艦が眼前に迫る。
《そこの辻馬車、道を空けなさい
―――
!!》
アッシュにとって聞き覚えのある声が響いた。
警告を受けた馭者が言われた通りに道を譲り、二人の乗っている馬車は無事に橋を渡り終えた。背後からは絶え間なく爆音が鳴り響いていたが、やがて一際大きな音がした後静かになった。
「ありゃあ、どうやら橋が落ちちまったみたいだな」
窓から身を乗り出して橋の様子を確認した馭者が、困ったように呟く。これで暫くはローテルロー橋は使い物にならない。
「一体何があったんですか?」
「ああ、軍が盗賊を追ってたんだろうよ。アンタ達と勘違いした漆黒の翼。まぁ、軍に追われてたんだから今度こそ本物に違いないんだろうけどね」
「成る程……」
そんな馭者とティアの会話を聞きながら、アッシュは窓の外へと視線を移す。
タルタロスとは無事に相見える事が出来た。あとはこちらが上手く動き、鑑の中へと乗り込む事が出来ればルークに辿り着く。屋敷を出て一番初めに襲い来る危機に、彼は何かしらの手を打ってくるに違い無いから。
会ったらまず何を言ってやろうか。
そんな事を考えながら、アッシュは流れ行く景色を眺めた。