猩々緋 -9-


 目覚めは決して良いものとは言えなかった。
 ズキズキと痛む頭を抑えながら身体を起こして辺りを見回した後、アッシュは盛大にため息をついた。確かに見慣れた部屋ではあるが、過去に戻ると決めた時点に予想していた場所とは違う。暖かな陽の光が降り注ぐこの場所は既に自分のものでは無くなった筈だ。
 そして自分が此処にいると言う事は、ルークがもう一つの場所に居るという事でもある。灰の名を受け、あの血塗れた道を歩んでいるのは、この世界においては自分ではなくルークなのだ。
 何を考え、誰の為にルークがそうしたのかはわかりきっている。

「チッ……だからてめぇは屑なんだ」

 それでこちらが喜ぶと思ったら大間違いだ。
 ルークが大人しくこの屋敷で待っていたならば、さっさと教団を抜けて此処まで出向き、例え彼が嫌がったとしても首根っこをひっ掴んで元の世界へと戻ったというのに。その方が随分と楽だったのだが、彼は何処までもこちらの意向を無視してくれるようだ。
 これからの事を考えながら、アッシュは机の上に視線を移した。そこに置かれた卓上型のカレンダーで今日の日付を確認しようとした際に、この世界の自分との記憶がリンクする。そうして思い浮かんだ日付は、決して好ましいものではなかった。
 ――― ND2018・レムデーカン・レム・23の日。
 ヴァンの妹と疑似超振動を起こして屋敷から抜け出す日。
 よりによってこの日に跳ばしてくれるとは、ローレライの奴も良い根性をしている。無事に戻った際には覚えていやがれと、アッシュは心の中で悪態をついた。



「おはようございます、ルーク様。朝食の支度が整いました」

 扉の向こうから聞こえる冷たい声音。
 部屋の外に出れるようにと身支度を整えた頃に、タイミング良く声が掛かった。普通ならばこうして呼びに来るのはメイドの筈だが、今その役目を担っているのは "ルーク" の世話役であるガイのようだった。
 どうやら彼との関係は平行線のままらしい。ルークのように、復讐心すら薄れさせてしまうような友情を築く事は出来なかったようだ。まぁ、それも仕方ないかとも思う。己の性格は己が一番わかっているのだから。

「ああ、わかった」

 返答を返せば、用は済んだとばかりにガイの気配は直ぐさま遠ざかっていった。
 ガイの気配が完全に消えたのを見計らって、アッシュは自室を後にした。

 応接室への扉を開くと、そこにはかつての師の姿があった。視線が咬み合い、彼は穏やかな笑みを浮かべて名を呼ぶ。
  "ルーク" ――― と。
 その名前はもはや自分のものではない。そう思いながらもアッシュはゆっくり前へと進み出た。彼に悟られぬように、笑顔を張り付けた仮面を被って。

「グランツ謡将は明日ダアトへ帰国されるそうだ」

 全員が揃った後、話を切り出したのはクリムゾンだった。
 そんな事など既に知っている。元の世界でヴァンはマルクトのあの大佐と共にダアトを抜け出した導師イオンの捜索に、ダアトの代表として公式に出向いていった。
 けれど、この世界の自分はその事を知っている筈がない。それを悟られてはいけない。今はまだ。

「そう……ですか……」

 寂しい、と。
 口には出さないけれど、声音から感情が十分に読みとれるようにアッシュは僅かに俯いた。
 それを見たヴァンが苦笑しながら振り返る。小さな子供をあやすような表情で、彼は昔と変わらぬ笑みを浮かべていた。

「そう気落ちするな、ルーク。その代わりに、今日は気の済むまで稽古に付き合ってやろう」
「……ありがとう、ございます」

 ああ ――― どうしてあの頃の自分は気付けなかったのか。
 彼が浮かべる笑みの下にある、本当の感情を。彼がこうして笑いかけて来るのは、この力を利用する為だったのだというのに。信頼させ依存させ、彼の思い通りに動く人形と成す為に。
 けれども、あの頃の己を取り巻く環境を顧みれば、それはあまりにも魅力的な誘惑だった。



 支度としてきますと告げ、武器を取りに部屋へと戻った。
 きちんと手入れされた愛刀を手に取り、それから机の引き出しを開けて中から比較的小さくて質のいい装飾品をいくつか取り出してポケットへと仕舞い込んだ。一度誘拐されてからというもの、屋敷から一歩も出して貰えなかったのだから当然ガルドなど持ち合わせてはいない。けれども外へ出ればお金は必要だ。魔物を倒せば幾ばくかは手に入るとはいえ、やはり手軽に換金出来そうなものを持っておく必要があった。
 中庭へ続く扉を開けば、草花の手入れをしていたペールがさり気なく声を掛けてくる。それが彼の主への合図だという事に気付くが、アッシュは軽く返答するとそのまま中央へと歩き出した。
 ほんの少し前までヴァンと向かい合っていた相手 ――― ガイは、こちらの姿を認めると会釈をしてから素早くその場を立ち去った。残されたヴァンに何故と問う事はしない。聞いた所で軽くかわされるのが目に見えていた。

「よろしくお願いします」

 剣を構えた。
 細心の注意を払い、現時点での己の能力に合わせて力をセーブしながら、アッシュはヴァンへと斬り掛かった。それをヴァンが難なく受け止め、攻撃に転じる。アッシュもその一撃を受け流して再び攻撃へ。ぶつかり合った剣と剣の間に火花が散り、高い金属音が何度も鳴り響いた。
 そうして打ち合っていた時間は果たして長かったのか短かったのか。
 本来ならば此処に居る筈のない一人の少女の歌声によって、師との最後の稽古は終わりを告げた。

「裏切り者ヴァンデスデルカ、覚悟!」

 真っ直ぐに、ただ自分の兄を目指して斬り掛かる少女との間に、アッシュは躊躇う事無く飛び出した。
 放っておいても彼女にヴァンは殺せない。譜歌という彼女にとって最大の切り札があったとしても、力量の差は目に見えている。二人がまともに対峙すれば勝敗は明らかだった。
 だが、その結末を見届ける気は更々無かった。

 二人の間に響く、武器と武器とが奏でる音。
 共鳴し、疑似超振動を引き起こし。
 そうして、眩い光が世界を染めていく。
 事態を察して驚きの表情を浮かべた少女の正面で、アッシュは口の端に笑みを浮かべた。

 さあ、始めよう。
 かつて歩んだ物語を、今一度。


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漸くファブレ家からアッシュが旅立つ事が出来ましたが、ストーリーはあまり進んでませんね…。
一応、タルタロスあたりまでは大筋はゲーム寄りの予定です。
ガイが素晴らしく冷たいので、タルタロスの『ガイ様華麗に参上☆』は無いんだろうなぁ。

2008.10.28