直ぐにでもダアトに戻ろうとしたヴァンに反し、アークはコーラル城に留まった。昨日ルークを乗せた馬車がここから出て行ったが、それが確実にバチカルへと向かった保証は何処にもない。確実にルークが公爵家へ帰還したという確証が無いうちは、ヴァンに従う気もなければそんな義務もない。もともとルークが無事に帰還して初めて彼に従うという約束だったのだから。
行方不明だった公爵家の子息の帰還の噂は、瞬く間に国中へと広まった。一応箝口令を布いていたのだろうが効果は無かったようだ。人の口に戸は立てられないというが、その伝達の速さと広さはキムラスカ王国王位継承第三位という彼の地位も相まっているのだろう。
だがそのおかげで、遠く離れたカイツールの地で確認が出来るのはありがたかった。ヴァンの手の者の言う事など信じられないが、民の言葉ならば別だ。伝わる途中で多少真実と異なりが生じようとも、その核となるものは変わりはしない。
すなわち
―――
ルークの帰還。
彼は無事にあの日だまりへと戻る事が出来たのだ。
良かったと、安堵の息を漏らす。
これでもう、ルークから何も奪わなくて済むのだから。
ローレライ教団の総本山ダアト。ここに神託の盾の本部がある。
コーラル城からダアトへやってきたアークは、あまり人目に付かぬようにと奥まった部屋を宛われ、更に数日間の休暇を与えられた。それが終われば神託の盾騎士団の一兵士として働く事となるのだろう。そして時が来れば更に上の地位へ。別に地位なんぞ望んではいないし、寧ろ煩わしいだけだ。だが、この神託の盾に縛り付ける多少の枷とはなる。ヴァンがそれに気付かない筈がない。どうせまた"六神将"と"特務師団長"という肩書きがくっつくのだ。
はぁ、と深いため息をついて、アークは固いベッドに倒れ込むように横になった。
何一つ変わらない風景。
以前、アッシュとしてヴァンの下へ留まっていた時に与えられた部屋もここだった。
(……あいつも、この部屋だったのかな)
陽の当たらない暗い部屋。まるで世界から隔離された場所のように、誰も来ない場所。小さな子供が一人こんな場所に閉じこめられていたのだとしたら、なんて残酷な事だろう。
本当の所はアークにはわからない。けれど、そうでなければ良いと願った。
(さて、これからどうするか)
ベッドの上でごろりと寝返りを打つ。
来るべき運命の年
―――
ND2018年までの7年間、出来る限りの事をしなければならない。考え得る最善の手を尽くし、ルークを護る。一つの失敗も許されない。
(今の時点で髭をぶっ潰せれば一番楽なんだろうけどな)
パッセージリングの耐用年数に限界が来ている為に、ヴァンが居なくとも外殻大地を降下させなければならないが、余計な邪魔が入らない方が断然楽だ。それに安易にフォミクリー技術を用いてこれ以上レプリカを量産されたくもない。預言を憎むあまりその矛先を世界へと向けたあの男さえいなければ、悲しい命達も生み出される事が無かったというのに。
何度繰り返しても、いつも世界の犠牲になって消えていくのはレプリカ達だった。この世界に生きていたという証も残さずに、己自身の名前すら持たぬ彼らは消えていったのだ。
それをもう見たくないと思うのに、だがアークには今の時点でヴァンを倒す事が出来ない理由があった。
あれは何度目の事だっただろう。
アッシュとしてダアトに残った世界だった。その世界でヴァンと己との力が逆転したとわかったその時、躊躇いもなくヴァンを屠った。確かまだ12の時だった。
かつて己の師匠であった人物に突き刺した刃を引き抜き、返り血にまみれながら思った。
これで世界を救えたのだ、と。
だが、それが間違った選択だったのだと気付くまでにそう時間は掛からなかった。
虫の知らせとはよく言うものだ。
ヴァンを屠ってからも何事もなかったかのようにダアトで暮らしていたが、その日は何か凄く嫌な予感がした。最初のうちは気のせいだろうと思いつつも、結局駄目だった。
今この世界で大切なものは己の半身であるルークただ一人。嫌な予感が示す事といえば彼に関する事なのだろう。何かあったのかもしれないとひとたび思ってしまえば、もう気が気ではなくなってしまった。
抱えていた仕事を放棄し、しっかりと関わりを持っていたギンジに連絡を取ってアルビオールを飛ばして貰いバチカルへ。アルビオールから飛び降り、昇降機に飛び乗る。昇降機がゆっくりと昇っていく時間さえもどかしかった。
ファブレの家へと辿り着いた時、一番最初に目に付いたのは門の前で倒れる白光騎士団の姿。辺りを漂う濃い血の臭い。彼が既に事切れているのは近寄らなくともわかった。
足が止まったのは一瞬の事。
次の瞬間、屋敷の中 ―――
ルークの部屋へ向けて走り出した。そこへ近づくにつれて増える屍の横を通り抜けて、ただひたすらに走った。
色とりどりの花が咲き乱れる庭の中央に、彼はいた。
過去、己に向けられていた眼差しがとてもやさしかったから、失念していたのだ。
彼の本当の名が"ガイラルディア"であった事、ホド出身であった事、ファブレ家を何より憎んでいた事を。
綺麗だと思っていた金色の髪
――― 飛び散った赤がやけに鮮やかに見えた
まるで空を映したかのような蒼い瞳 ――― 深い憎しみの色に染まり
優しい言葉が紡がれていた唇 ―――
今は昏い喜びに歪んでいた
彼の足下に広がる血だまりに倒れている、小さな紅。
ルークの姿を確認した途端、目の前が真っ赤に染まった。
腰の剣を引き抜いて駆けた。
キン、と大きな音を立てて交わる刃。突然の襲撃を受け止めたガイの目が驚きに見開かれた。それはまるで、亡霊でも見たかのようなもので。殺したと思っていた敵の子供と瓜二つな存在が突然現れたのだから、当然の反応だと思った。
剣を振り切ったガイが後方へ跳んで距離を開ける。
純粋な力ではまだガイに押し負けることがわかっていた。力の剣であるアルバート流を扱う者にとってそれは致命的だ。だが、師であったヴァンですら凌いだ今の己にとって敵ではなかった。予想通り、決着がつくのにそう時間は掛からなかった。
ルークの亡骸を抱いて泣いた。
半身をもがれた痛みと、ガイをこの手に掛けた痛み。声が枯れるほどに泣き叫んだ。
どうして気付かなかったのだろう。ガイがファブレ家への復讐を踏み留まっていた理由の一つが、ヴァンの存在であった事に。彼の計画にはどうしてもルークの存在が必要だ。だからガイにルークを殺されては困るヴァンは、ガイの説得をしていたに違いない。
それを殺してしまったのは紛れもなく己であって、だからルークを殺したのもまた己なのだ。
流れる涙を拭い、血に塗れた剣を手に取った。
その世界の記憶はそこまでだった。