いっそ鬱陶しいくらいに頻繁にやって来ていたイオンの来訪は日を追う毎に減っていき、そしてある日を境にとうとう姿を見せる事はなくなった。
「アーク特務師団長。導師イオンがお呼びです」
任務と任務の端境期。特にする事も無く、自室でベッドに転がって本を読んでいた時の事だった。
目眩ましの術を越えてやってきたオラクル兵が、部屋の中のアークに向けてただ静かに一言そう告げた。
「わかった、直ぐに行く」
本を閉じてベッドから起き上がる。それと同時に部屋の外に待機しているオラクル兵へと言葉を返した。次の仕事が控えているのか、用は済んだとばかりにさっさと立ち去る足音が、しんと静まりかえった部屋ではやけに大きく聞こえた。
オラクル兵の気配が去っていくのを感じながら、ついにこの日がやって来たのかと思う。
(……イオン)
咄嗟に浮かんだ面影は二つ。
よく似ているけど違う、決して交わる事の無い二つの緑色。
壁に掛けておいた黒の法衣に手を伸ばす。導師に目通り出来るように素早く身支度を整えると、アークは自室を後にした。
「神託の盾騎士団、特務師団長アーク。只今参りました」
「……どうぞ、入って下さい」
扉の横に控えた兵が、主の声に応えて扉を開く。左右に開かれたドアの間から真っ直ぐに中へと入ると同時に、今度は背後で扉が閉まる音を聞いた。
殺風景な部屋の奥に置かれたベッドに伏せる姿。既に身体を起こすことすら一人では無理なのか、顔だけをこちらに向けてイオンは微かに微笑んだ。
「すみません……こんな状態で。もう自分の意志では、禄に動けないんです」
ゴホゴホと咳き込むイオンの傍らには、いつも彼に付き従っているアリエッタの姿が無い。だから今この部屋に居るのはイオンとアークの二人だけだ。
ベッドの傍まで近寄ると、あらかじめ用意してあったらしい椅子を引き寄せて腰掛けた。それでもまだ目線の高さは等しくはならないが、こればかりは仕方がない。見下ろすような形で向き合いながら、アークはただイオンの言葉を待った。
「アリエッタは……僕の一存で導師守護役から外させました。……きっと、彼女は今頃泣いてるんでしょうね」
「……そうだな」
アリエッタは涙脆い。いつも泣きながらイオンを捜しにアークの部屋へと飛び込んでくるから、彼女の笑った顔よりも泣き顔を見る方が多かった。
誰よりもイオンの事が好きな彼女は、間違いなく泣きじゃくっているだろう。導師守護役を解任された理由を、イオンに嫌われたからだと勘違いしながら。
「でも、アリエッタは……僕の導師守護役です。この後 "導師イオン" となるレプリカに、彼女までは渡したくはない。……これは僕の、ほんのささやかな抵抗です」
"イオン" という名前、"導師"という地位と居場所。それはかのレプリカにとって望むものではないかもしれないけれど。けれども何も知らない人にとっては "オリジナル" に代わって彼が "イオン" となる。アークのように始めから知っていなければ入れ替わりに気付く者はいないだろう。それ程までにレプリカとは外見は瓜二つの存在である上、継承されなかった知識すら既に完璧に教え込まれた筈だ。
もうすぐ消える命の灯火の存在を、人々が知る事は無く。
この命が尽きても弔ってくれる者は殆どおらず、 "イオン" としての墓を築く事すら許されない。 "イオン" はまだ生きているのだから。
「――― 昔、僕は「あなたに殺されたい」と言いました。でも、ほんとうは……もっと生きたかった。全ての柵を断ち切って、あなたとアリエッタと、一緒に暮らしたかった。導師としてではなく……ただのイオンとして」
叶わないから夢を見る。
届かないと知りつつも、瞼の裏側に映るその世界へ手を伸ばした。
やはり、それは決して掴むことは出来なかったけれど。
「でも……この三年間は、ほんとうに楽しかった……」
こっそりと自分の部屋を抜け出して訪ねて行くと、アークはいつもうんざりしたような態度を見せながらも結局は迎え入れてくれた。帰り際にもう来るなと言われた回数は多すぎて覚えてはいない。
彼のティーセットで勝手にお茶を淹れて。でもそうすればいつだって彼は一緒に向かい合ってお茶に付き合ってくれた。冗談のつもりで「茶菓子は無いのか」と尋ねれば、次の時からはちゃんと用意されるようになった。
一度も言葉に出した事はなかったけれど、そんなささやかな時間がとても嬉しくて、幸せだった。
「…………死にたく、ない」
精一杯笑おうとする心に反して、涙が頬を伝った。
泣かないと決めていたのに、彼を前にするとどうにも弱くなってしまうらしい。一度外れてしまった箍を戻す気もなく、イオンはただ涙の流れるままに任せた。
「ごめんな……イオン」
死にたくないと力無く呟くイオンの姿が、かつての己の姿と重なって見えた。
世界と自分の命を天秤に掛けながら、世界を望む人々の求めに応えようと決めたあの時。そうしなければならないのだと必死に自分に言い聞かせながらも、心はずっと死にたくないと叫んでいた。
そうするしか術を知らなかった。どうやっても他に世界を救える方法を見い出せなくて、諦めるしかなかった。
それは何度世界を繰り返しても変わる事は無く。
「なんで、あなたが謝るんですか?」
涙に濡れた目で見つめながら、不思議そうにイオンが訊いた。
「今、一緒に泣く事すら、俺には出来ない……」
涙なんてものはとうの昔に涸れ果てた。
だから目の前の命が今にも尽きようとしていても、悲しいとは感じはしても泣くことは出来ない。
「――― いいんです。あなたは何も悪くないし、それに僕だってあなたには泣いてなど欲しくない」
全てを知っていて、そしてその全てを憎んでいるような強い光を宿した瞳。初めて彼を見た日に強く惹かれながら、何処か自分に似ているとも思った。
預言を憎み、それが浸透しきっている世界をも憎んだ。世界を壊してしまいたいと何度思った事かわからないけれども、でもほんとうの望みはほんのささやかな事だった。ただ普通の幸せが欲しいと願っていた。
きっと、アークの望みもこれと同じなのだろう。
望む望まないにかかわらず、預言に巻き込まれた存在同士。自分には無理だったけれど、彼はその預言を消してしまえる可能性を秘めた者。
ここで時が止まる自分とは違って、彼はこれからを生きていく。
「それよりも……どうか。僕の事を覚えていて下さい。僕が生きていたという確かな証を、あなたの心の片隅で良いから残させて下さい」
たとえこの身が消えてしまっても、どうか、この想いは彼と共に。
「ああ」
短いながらもはっきりとした声で告げられた言葉に、イオンは嬉しそうに微笑んだ。
「……出来ればもう少し、ここに居て下さい」
段々とか細くなっていく呼吸に、もう彼には時間が残されていない事を悟る。きっとこの瞼が閉じてしまえばもう二度と開く事は無い。
力無く投げ出された手を掬い上げて、そっと両腕で握った。
「――― おやすみ、イオン……」
やがて、ゆっくりと降りていった瞼が完全に閉じきったのを見届けると、アークは静かに部屋を出て行った。